2012-04-25

人間という生きもの






やっぱり私は人間が好きだった。


最近ようやく身体表現の勉強をはじめた。

ピナ・バウシュくらいは知っていたけれど、じっくり見たことってなくて、
この間アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル率いるローザスの映像と、ヴィム・ヴェンダースの映画「pina」を一日で見て、はじめていろいろなことに気づいた。

人を、ひとつの動物、生き物として見る見方に必要性を感じている私にとって、
身体の存在は、常に切っても切り離すことのできないもの。

そんな考えでいたはずなのに、なぜこれまで身体表現というものを通過せずにいられたのか、今となっては不思議で仕方がない。
そして、身体表現というメディアが、どんなメディアをも乗り越えてしまうような絶対的存在に見えてしまって仕方がない。
だって、人間の身体ほどダイレクトで、こちら側を飲み込んでしまうようなものに対して、何も感じないでいられるような人がいるのだろうか。とさえ思う。


「pina」で、私は、映画を観てはじめて泣いてしまった。

これまでも、映画で泣いたようなことは少なからずあったけれど、これほどまでに心臓をわしづかみにされたというか、震えがとまらないまま泣いたのは、はじめてだった。

特に強く印象に残っているのは、コンタクトホーフという作品。

劇場の奥には椅子が並べられ、男女が座っている。
そこから1人ずつ前に出てきて、一定の動作をし、席に戻っていく。
これを繰り返すような部分がある。

この作品は、1978年団員が演じたもの以降、再演ごとに、65歳以上のアマチュアダンサーを起用したり、ティーンエイジャーで構成されたりしてきたそうだ。
その3作品をヴェンダースはリンクさせ、ひとつの映像を作りだしていた。

そのシーンで、私は自分の持ち得る感覚が揺さぶられるのを感じずにはいられなかった。
いわゆる時間芸術としてそこにある時間だけではない、人の持つ時間を一気に手の内ににぎりしめてしまったような感じ。
その恐ろしさと同時に沸き上がる美しさ、そして強さ。
そこにあるのは決して希望や未来といった明るいものだけではなく、と同時に、たとえば"老い"のような、生き物が必ず迎える、さまざまなことを失っていくという過程を、こうも魅力的に表現できるのかと圧倒された。



「pina」の映像体験にあった大きな特徴は、見ている人がすぐにでも身体を動かしてしまいたくなることにあると思う。
実際私は、自分の持つ体感覚を確認したいという気持ちをおさえられず、動きたいという衝動に耐えていた。

普段作品のことを考える時、私は、作品自体が体験として残るものが、結局相手に強さや生々しさをダイレクトに伝えるのではないかと考えてしまっているところがあって、
だからこそ、視覚(聴覚)としてとらえただけでこんなリアルな衝動を生むものがあっていいのかとさえ思った。


私が見ていたものは、もちろんピナの作りだした作品そのものではない。
それを前提に作られた、ヴェンダースの作品だ。

だから、この、すぐにでも身体を動かしてしまいたくなるような感覚が実際の身体表現によるものなのか、映像から感じたものなのかは、わからない。
身体表現、パフォーマンスというのはその一瞬にしか存在することができないわけだし、そこからひとたび離れてしまえばオリジナルの作品とは言えない。

私は、今の段階では、一瞬にある身体表現の作品とそれをおさめた映像作品とを明確に区別化し、語ることができない。
ただ、今回のヴェンダースの作品に動かされた感覚や、ローザスの映像で感じた、息づかいの音、身体の細やかな動きの音といった繊細な要素の重要さからも、私はそうした記録映像的存在に可能性を強く感じずにはいられない。

この、パフォーマンスと映像の関係性というのは、私が理想とする、行為をアートとしているようなものたちにも通じる、考えなければいけない項目のひとつだろうと思う。
パブリックアートもそうだし、その場所、環境を選んだ作品を考えていく以上、ずっとつきまとう。




4月になって新しい環境に身をおき、人に話をするということが少しずつ怖くなっている。
今の私が自分の考えや思いを露にすることに、どれだけの意味があるのだろうと思ってしまう。
説得力がないから。

でも、便利な世の中で、こんなひとりごとを書き留められる場所があるのだから、ここでくらい叫んでもいいかしらと甘えている。

自己満、なんて言葉つかいたくないけれど、
自己満なんだけれど、
私は今、人間の身体に魅力を感じずにはいられないし、それを露にせずにはいられなかった。

パフォーマーとしての要素をもたない私には、それにどう接していくのか考える必要があるけれど、
身体の動きの限界に挑むような形でなくとも、できることはあるはずだし、
インスタレーションの物質要素からその身体の存在を浮き彫りにすることもできるのではないか、と今は思いたい。




memo

バレエダンサー
シルヴィ・ギエムの舞台裏の映像もちらっと見て。

人の身体には狂気や恐怖が入り交じっている。
演じる人を見ると分かりやすいけれど、身体と心を共にしている時間があれば、身体を突き放して見ているような残酷な姿勢の時間もある。
その矛盾が、実際のパフォーマンスから滲み出てくるように思う。

この感覚は、あるミュージシャンのピアノを弾く手を見ても思ったこと。
そこがまた、身体のもつ魅力だし、
そうした矛盾をも飲み込んでしまえるから、人ってやっぱり面白い。


3 comments:

  1. 自己満 でいいじゃないか
    自分が満足しないで誰かを満足させることができるのか
    そう考える今日この頃…

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  2. 0bさん
    まあ今回はそのくだりはまったく重要ではないのですが。
    自己満でいい、そういう価値観もあるかもしれません。
    ただ、作品をつくる上では、何を見せて何を見せないかが重要だと感じますし、思考に関しても、どこまでを露にしどこは隠すのか、その判断が大切だと思っています。
    自己満でいいのなら、作品も見せる必要はない。
    そして、自分が満足しなければ人に見せてはいけないだろうと思うと同時に、満足したらそこで終わりという感覚もあります。
    だから、この場はやはり私の甘えにすぎません。

    ただ、いくら甘えの場に書いたものだとはいえ、話の主旨にまったく触れてもらえないほど悲しいこともないので、もっと魅力的な文章が書ける人間になるよう精進しなければいけないなあと改めて思いました。

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  3. 映画「pina」を見ていないし、知らなかったので適当に触れてはいけないのであえて触れなかった。身体、身体での表現を今まで見ていなかったって言うのが本当かもしれない。自分が今までいかに偏っていたのかを感じさせられました。もともと音楽もかなり偏って聞いてきたし、やっとそこから広がり始めてる段階かもしれない。頭で考えることばかりな自分がよくわかった。つまらないコメントですみません…

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