2013-11-04

ただの動物。ひとつの生き物。


スガダイロー五夜公演 2日目
スガダイロー×飴屋法水

ピアノ。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。

その言葉のフレーズが頭に染み付いてる。

そのときの、飴屋さんの手を差し出す感じが何とも言えなくて、
思い出すと体がじゅわっとする。

ピアノの歴史を語る飴屋さんの声はとても穏やかで、
それでいてとても危うい感じだった。
綱渡りをしているみたいな絶妙なバランスを保っていて。
最近、"絶妙なバランスを保った部屋"っていうキーワードが焼き付いてるんだけど、
まさにあの劇場全体がそんな感じだった。

スガダイローさんの演奏の入り、そして途中の間の切り方は即興とは思えない形で、
実は台本があるんじゃないかと疑いたくなったけど、
2人の視線の投げ合いが、即興だということを強く物語っていた。

ピアノの上を飛び回り、時に這いつくばって、その形をひとつひとつ確かめるように動いていた飴屋さん。飴屋さんにとって、あれらは生き物だったんだろうなと思う。
ピアノがなぜピアノ・フォルテのフォルテの部分がなくなってピアノになったのか、それは僕にはわからない。だってピアノはとても強いから。そう言ったときの飴屋さんの声が忘れられない。

そして何かに取り付かれたかのようにひたすらピアノを弾く、スガさん。

あの情景は、今思い出そうとしても、そっくりそのまま頭で再現することはできないと思う。

飴屋さんの動きはどれもひとつひとつが綱渡りで、
どこかひとつでもタイミングを間違えたら壊れていきそうだった。

ピアノを壊すときの振動、
どん、どん、って、下から沸き出してくる振動。
人の体ってすごい。


ひとつとても興味深かったのは、スガダイロー五夜公演、つまり音楽イベントのはずなのに、ほとんどの人がリズムをとっていなかったこと。。。
私はスガさんの演奏を聞いたのは初めてだったし、即興のイベントもあまり行ったことがないからわからない、もしかしたら黙って動かずにいるのが正しい聞き方なのかもしれないけど、でも音楽のイベントって、ライブハウスとかだったら、1人や2人、揺れ動いてリズムをとってる人がいたとしてもおかしくないじゃない?
それがあんまり見られなかったのは面白かった。

みんな、飴屋さんがひょいひょい動き回るのを目で追っていて、まるでBGMに演出された舞台のようにさえ。
でも、そこには生のピアノが必要で、その生のピアノを弾くスガさんが必要だった。
皮肉にも、それがBGMのように聴こえてしまいかねない状況はとても複雑だったし、私はまったくもって音楽をそんな風にとらえたくはないのだけれど。

終わったあと、
最後に、分解されたピアノの欠片が吊るされた舞台をおそるおそる撮ったけど、
やっぱりこんなのには意味なくて、
あそこにあった時間は取り繕うことのできない瞬間だった。


とりあえず自分が今回かなり学んで吸収したことは、
やっぱり行為はそこにあっていい。
自分にとって魅力的だと思うことをやっていい。
それを人に少しでも理解したいと思ったときの手法として、
そこにストーリーをつくって、フィルターをかけてもいい。
そのフィルターがうまいことみんなの目にかかって、人に見てもらうことができたら、もしかしたら人には少しでも自分のやっていることを理解してもらえるかもしれない。

人は、ただの動物。ひとつの生き物。
その事実を忘れてしまわないように、私は日々活動しています。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。