2012-06-25

私が歩く向きを変えても、後ろに続く足あとは消えない。




ふといつもの時間から離れてみると、
何もないと思っていたところに無意識の自分の主張を見つけたり、
今一度いろいろなことを捉え直す時間がくる。

そう、時間の軸は止まることはなくって、
ただ自分が何に目を向けるか、何を大事にしてその一瞬を過ごすか、ということでしか
違いはない。



本質的な部分は変わっていないんだけれど、
私は、今年に入ってから作品が作りやすくなってしまった。
ような気がしているんだけれど、そんな自分が怖かったりする。

作品を作りやすいというのは、
作りたいと思う内容が具体的に思い浮かべられたり、
結構スムーズにそれが進められたりするからなんだろうけど、
と同時に、なんだか制作がお手軽な感じがしてしまっていて、それが怖い。

実際、今年に入ってからは写真を媒体とした作品が多い。
インスタレーションや立体はほとんど作っていない。
やっぱり、費用も手間もかかってしまうものだし。

まあそれを素直に、写真に対する興味がでてきただけととらえることもできるんだけどね、
どうも私はひねくれている。

最近、また映像を撮る楽しみを思い出していたりもして、
ああ映像作品つくりたいなあなんて、気持ちが浮気していて、
だけど、それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからなくて、
以前よりは変な悩みが減った分、スムーズに事が進んでしまうことが怖い。

という、変な悩み。

まあ、結局、やりたいと思ったことは全てやるのだけれど。
(だからこれは、言いたいだけなんですよ。笑)




あ、ただね、
作品を作るうえですごく思うことは、作品自体とその周りのものとのバランス。

私は個人的に、やっぱり作品って作品だけで語ったもん勝ちだと思っているのですが、
作品の中には、説明があってはじめてなるほどね、みたいなものも結構ある。

でも、いくらそこにある哲学や思考が素晴らしかったとしても、
作品自体がそれらに負けてしまっていたら、
それって作品にする意義があったんだろうかと思えてしまう。

自分も、ついこの間出した作品にことばをつけるかどうかすごく悩んだけど、
それもそんな意識があったから。
その写真作品はもともと単体で存在するもののように感じていたから、
そこにことばを加えたら、どうも説明的になってしまうんじゃないかと思った。
悩んで悩んで、今回は見る人に考えの方向性を見せられるようなことばを添えた。

"ことば"で作品を補強するくらいなら、"ことば"も作品に含ませてしまう方がいいかもしれない。
この作品のメディアは?と聞かれたら、写真とことばです、って言うような。

でもやっぱり、作品だけで語ってしまうものは、強い。
と、泣けるほどの音楽を聞いていて思います。
(この音を皆さんに共有できないのが残念です。)




最近の悪いこと、は、
展示を見たり、外の要素に触れることが少ないことかなと思う。
ただでさえそういう性格なのに、尚更自分自分が強くなってしまって、よくない。
人の話を聞いても、どうしても自分の作品だったりそこにある思考と照らし合わせて考えてしまって、うーん、よくない。
いつから、人の話をただ純粋に聞くことができなくなったんだろうか。



ま、とりあえず本でも読もう。
今とても読みたいのは、エドワード・ホールの『かくれた次元』


これまで作った作品も一度整理しなければ。
はやくやろうやろうと思いながら、まだできてない。
悪い癖。


今日は一段と独り言が長くなってしまいました。
ゆっくりベッドでごろごろして、映画を何本も見れた時間も終わり。
またちょっと違った時間が流れて行きます。