2013-12-06

とびらをあける

とびらをあける

という言葉を聞くと、
別世界に行けると思う人が多いらしい。

とびらがあっても、急に別世界に行くことなんてできません。
その先も同じ世界がひろがっています。

とびらは、空間と空間を仕切るものであって、起動スイッチにはなりうる。
でもとびらをあけて、どこか別のところに逃げたくても行くことはできません。
そこに驚きはない。ただその行為が繰り返されてゆくだけです。

それをうまく伝えることができない。
刺激を生むのがアーティストなのか?

2013-11-04

ただの動物。ひとつの生き物。


スガダイロー五夜公演 2日目
スガダイロー×飴屋法水

ピアノ。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。

その言葉のフレーズが頭に染み付いてる。

そのときの、飴屋さんの手を差し出す感じが何とも言えなくて、
思い出すと体がじゅわっとする。

ピアノの歴史を語る飴屋さんの声はとても穏やかで、
それでいてとても危うい感じだった。
綱渡りをしているみたいな絶妙なバランスを保っていて。
最近、"絶妙なバランスを保った部屋"っていうキーワードが焼き付いてるんだけど、
まさにあの劇場全体がそんな感じだった。

スガダイローさんの演奏の入り、そして途中の間の切り方は即興とは思えない形で、
実は台本があるんじゃないかと疑いたくなったけど、
2人の視線の投げ合いが、即興だということを強く物語っていた。

ピアノの上を飛び回り、時に這いつくばって、その形をひとつひとつ確かめるように動いていた飴屋さん。飴屋さんにとって、あれらは生き物だったんだろうなと思う。
ピアノがなぜピアノ・フォルテのフォルテの部分がなくなってピアノになったのか、それは僕にはわからない。だってピアノはとても強いから。そう言ったときの飴屋さんの声が忘れられない。

そして何かに取り付かれたかのようにひたすらピアノを弾く、スガさん。

あの情景は、今思い出そうとしても、そっくりそのまま頭で再現することはできないと思う。

飴屋さんの動きはどれもひとつひとつが綱渡りで、
どこかひとつでもタイミングを間違えたら壊れていきそうだった。

ピアノを壊すときの振動、
どん、どん、って、下から沸き出してくる振動。
人の体ってすごい。


ひとつとても興味深かったのは、スガダイロー五夜公演、つまり音楽イベントのはずなのに、ほとんどの人がリズムをとっていなかったこと。。。
私はスガさんの演奏を聞いたのは初めてだったし、即興のイベントもあまり行ったことがないからわからない、もしかしたら黙って動かずにいるのが正しい聞き方なのかもしれないけど、でも音楽のイベントって、ライブハウスとかだったら、1人や2人、揺れ動いてリズムをとってる人がいたとしてもおかしくないじゃない?
それがあんまり見られなかったのは面白かった。

みんな、飴屋さんがひょいひょい動き回るのを目で追っていて、まるでBGMに演出された舞台のようにさえ。
でも、そこには生のピアノが必要で、その生のピアノを弾くスガさんが必要だった。
皮肉にも、それがBGMのように聴こえてしまいかねない状況はとても複雑だったし、私はまったくもって音楽をそんな風にとらえたくはないのだけれど。

終わったあと、
最後に、分解されたピアノの欠片が吊るされた舞台をおそるおそる撮ったけど、
やっぱりこんなのには意味なくて、
あそこにあった時間は取り繕うことのできない瞬間だった。


とりあえず自分が今回かなり学んで吸収したことは、
やっぱり行為はそこにあっていい。
自分にとって魅力的だと思うことをやっていい。
それを人に少しでも理解したいと思ったときの手法として、
そこにストーリーをつくって、フィルターをかけてもいい。
そのフィルターがうまいことみんなの目にかかって、人に見てもらうことができたら、もしかしたら人には少しでも自分のやっていることを理解してもらえるかもしれない。

人は、ただの動物。ひとつの生き物。
その事実を忘れてしまわないように、私は日々活動しています。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。

2013-08-25

井の頭線と小田急線。

なにもかもが、
空間で、体積で、かさで、量でできていて、動物。

グラスも、メニューも、箸もスプーンも、あの人の手も、私の指も。

言葉が、視線と視線を遮る。

本当はとてもシンプルなはずなのに、
こんなに絡まっているのはなぜだろう。

2013-07-22

トポロジーと部屋と体積



これまで、かわいいZINEを見ることはあっても、
どうしても欲しい、と思えるものに出会ったことはなかった。

少し前にユトレヒトに行ったとき、
本当に金欠でどうしてもお金がなくて、
それでもどうしても欲しくなって買ってしまったもの。

それが、PHILIPPE WEISBECKERの"GREENHOUSE STUDIES"だった。




中身は、温室の写真とそのドローイング集。
特にカラーもなく、この表紙のテイストがずっと続いていて、
ドローイングも表紙と同じ線で描かれている。
お洒落なものや可愛いものは他にもあったはずなのに、
なぜかこれがどうしても欲しくて、買ってしまった。


今日、また改めて"トポロジー(位相幾何学)"についていろいろと調べていたら、
たくさんのいろんな点と点がつながって、線が見えかけた。

"トポロジー"という言葉を意識しないときから、
"やわらかい幾何形態"という言葉を使っていたこと。

部屋

体積

階段

スライム

全部の要素が一致して、このZINEを買わずにいられなかった理由がようやくはっきりした。


ひとつ気になっているのは、ユウジモリさんというアーティストを今更知ったこと。
http://www.yujimori.com/

階段

Tシャツ (服、身につけるもの)


また、でてくるキーワード。



皆さんは、『体積』という言葉の意味を、知っていますか。

Wikipediaによると、
体積(たいせき)とは、ある物体が 3 次元の空間でどれだけの場所を占めるかを表す度合いである。

だそうですよ。


あなたは、あなたの体積を知っていますか?




夢では、どんどんどんどんどんどんどんどんどんどん部屋が作られます。
扉も窓も自由自在で
どんな入り組んだ形もできます。
廊下をつくってもいいんですよ。

ずーーーーっと廊下を進んで行くと、その先の扉の向こうには、どんな部屋がありますか?

2013-06-08

6月8日の私が思うこと





わたしは、
わたしの存在を知らない。

わたしは、
わたしの輪郭を知らない。

触れて、感じて、見えてしまって、
わたしは、ようやく
わたしを掴むことができる。

2013-05-26

すこし

すこし、Tumblr更新しました。
是非見てください。

http://hannahnkmt.tumblr.com/

どんなことでもかまいません。
ご感想、ご意見お待ちしてます。。。

生きられる空間、とはなにか?



最近、『生きられる空間』という言葉がついてまわる。

これは、フッサールやベルクソンの時間論に影響を受けた精神医学者のE・ミンコフスキーが、『生きられる時間』と対にして提示した言葉。

生きられる時間が存在するように、生きられる空間も存在する。空間はわれわれにとって決して幾何学的な諸関係に還元されるものではない。幾何学的な関係は、われわれが単に好奇心の強い観客や学者の立場に立って、あたかもわれわれは空間の外にいるかのようにして、組立てるところの関係である。しかしながら、われわれは空間の中で生きそして行動しているのである。(Minkowski, 1933, p.367, 強調原文)

この『生きられる空間』という言葉を自分の中に飲み込んだとき、
そこには必ず自分自身の身体の体積がある。

私が私である限り、この持っている身体が基準になって、空間や環境、動きを決めていく。たとえば、私が歩いていく一本の道でも、自身の足で進む一歩一歩によって、生きられる空間はつくられていく。
そして、身体がなければ、そこに生きられる空間は存在しない。
私たちがどのような幻覚を見るかは関係なく、数学的なベクトルで示された空間、ただ均一で一定の無機な広がりしか存在しない。


そして自分の身体を軸にして空間を確かめていくとき、
"一人分の空間"という感覚も同時に生まれる。

私たちの生活を見渡せば、そこには既に与えられた一人分の空間があふれている。
それでも、あくまで個々の身体を軸にするならば、一人分の空間というものは、どれも均一で一定であってはおかしいし、私は、『生きられる空間』における『一人分の空間』というものをとらえ直してみたいと思う。

食べて、動いて、排泄して、
その生理現象のサイクルによって存在する身体が存在することで、
はじめて実際の空間は生まれていく。

そして、そこにある空間によってまた、
私自身の身体にも限界と自由が与えられると感じている。

2013-03-31

ふたり



ひとりであれこれやるのが、大変だなってときもある。
うまくできなかったりもするし、一歩足を踏み込むのには勇気がいる。
それでもやらなければいけないときもあるんだけど、
でも人間だと、やっぱりひとりは心細いときもある。

そういうときに、2っていう数字は強い。
ひとりですべてやってしまえるのがかっこいいときもあるんだけど、
ひとりでできないことも、ふたりならできる。それってもっと強いかもしれない。

目に見えないところで、1人がよろっとしても、もう1人が助けてくれる。
そういうのが人には必要なときがあるし、大事だなと思ったりするんです。

とはいえ、そうもうまくいかなかったりもするんだけどね。
とってもシンプルなことのようだけど、現実には難しいこともあるからね。
でも、やっぱり思うのは、そんな形ってそんな暮らしって、とてもおだやかで豊かなんだろうなということ。

暮らしの豊かさって、なにでできてるんだろう。

クラムボンの"おだやかな暮らし"を聞いて、今日は眠ります。

2013-03-28

さよなら髪の毛

ずっと伸ばしてきた髪の毛と、さよならした。ずっと重くなる一方だった頭の後ろっ側からぐいっと前に重心が変わってしまったような、不思議な感覚。

山川冬樹さんも言っていたけど、
髪の毛には何かが宿ってしまうのだと思う。必要なことも必要じゃないことも、いろんなものが引っかかってぶらさがってしまって、髪の毛を伸ばせば伸ばすほど、そこには何かが宿ってどんどん重みを増していく。

だから、そこを断ち切るのはなかなか難しい。だけど、決断が苦手な自分自身へのひとつのスイッチをみつける作業として、今回のさよならが意味のあるものになればいいな。